講師プロフィール

江古田 ピアノ教室 

 

西山 淑子(にしやま よしこ)

 

 

武蔵野音楽大学作曲科卒業、同大学院修了。ピアノ・エレクトーン教室「よしこの音楽室」を主宰。

ヤマハ音楽教室幼児科、尚美学園短期大学(現尚美学園大学)、東京ミュージック&メディアアーツ尚美、常葉学園短期大学、昭和音楽大学で、通算40年講師を勤める。

 

 

幼児からのピアノ・ソルフェージュ教育と、生涯の楽しみとしての大人のピアノ指導に特に力を注ぐ一方で、 作・編曲及びエレクトーンによるコンチェルト、オペラ、歌曲などの伴奏も行っている。 またピアノのレッスンでの電子オルガンの活用を硏究・実践し、生徒たちのために「 エレピアコンチェルト 〜エレクトーン伴奏によるピアノ初心者のためのピアノコンチェルト」を編曲し続けている。

 

 

ピアノ講師向けセミナーや、子どもたちのためのコンチェルト演奏会も行っている。

 

88年に、娘が生まれた事がきっかけで出会った童謡詩人「金子みすゞ」の詩に作曲すること30年。「金子みすゞの詩による童謡集」は声楽家のレパートリーとして広がっている。

 

’04より故郷・伊東にて「伊東ミュージカル劇団」のオリジナルミュージカルの作曲、演奏に携わる。

 

作曲や演奏活動多数。全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)正会員 。 ピティナピアノステップアドバイザー。 日本音楽舞踊会議、日本電子キーボード音楽学会、各会員。 日本ELコンチェルト推進協会代表。

 

 

 

よしこの歴史

今ようやく落ち着いて『指導』に専念できるようになりました。まだまだ勉強は続きますが、これまでの経験から自信を持って『教える』ということができると思えるようになりました。

 

私がどんな人生を歩んで、今に辿り着いたのか、振り返ってみます。今の西山淑子が、どうやって出来上がったのか、よかったら読んでくださいね!

 

 

幼少期〜ピアノとの出会い

私が生まれたのは、伊豆の伊東。祖父母と両親と兄と6人家族。家は歯科医院で、昼間は両親とも診療室で仕事。私は、祖母と過ごすことが多く、いわゆるおばあちゃん子。祖母は、女の子の初孫である私を、よほど嬉しかったと見え、日本舞踊のお稽古やお茶会に連れ歩きました(まるでペットだ!笑)。

 

そんなわけで、私の最初の楽器との出会いは、お三味線だったのです。子どもサイズのお三味線を作ってくれました。

 

しかし・・・踊りもお三味線もあまり好きじゃなかったみたいで、泣いて「嫌だ〜!」と言ったそうで、あっさり辞めたようです。それでも1〜2回は、おさらい会にも出てました。

 

そして、『お三味線が嫌ならピアノでも』と、小学生になると同時にピアノを始めたのでした。

 

 

学校はサボってもピアノのレッスンは休まない

ピアノは、嫌じゃないどころか楽しくて楽しくて仕方ないという毎日で、練習しなさい!なんて一度も言われたことないけど、弾かない日はないという、そんな子でした。 

当時のことだから、教本はバイエル、メトードローズ、チェルニー、ブルグミュラー、ソナチネ、ハノン。とにかく楽譜通りに弾けていればOK!って感じのレッスンだったけど、それでも楽しかったんでしょうね。

 

そして、体が弱かった(今じゃ考えられない!笑)ので、冬、流感が流行り始めると、父は学校に行かせなかったのです。行けば必ずうつって休むことになる。だから、元気なうちに休んでしまう方が、辛い思いしなくて済むし、心配しないだけ良い!という考え。かなり破天荒でしたけど、この父の考えは素晴らしいと思いますわ!

 

で、日がな、ピアノを弾いていたのです。そしてレッスンは行かせてくれました。うつる確率は殆どゼロですからね!

 

  

 

緊張に弱い? なのに人前で弾くのは好き!

小学校低学年の頃は、とにかく体が弱くて、いつもと違うこと(遠足とか運動会とか学芸会とか)があると思うと、前夜に嘔吐と発熱という症状が出るんです。『自家中毒』と言われてました。つまり繊細で神経質だったんですね。ピアノ伴奏することになっていた学校の音楽会には、出番の時間に合わせて、母がハイヤーで連れて行ってくれて、終わったらすぐ帰るなんてこともありましたっけ。

 

なのに、です!ステージで演奏することは大好き。だから発表会は楽しみで楽しみで!!ウキウキしていたのを覚えてます。不思議な子でしたねぇ。

   

 

エレクトーンと出会って、人生変わる?

小6になる頃、楽器屋さんの勧めでエレクトーンも習うことになりました。届いたのは、ヤマハが始めて作った、D-1という機種(1959年発売のD-1を弾いたことがあるって、これはもう化石ですね。笑)

 

色んな音が出ることに興味津々で、ピアノも続けましたが、エレクトーン命!の生活が始まります。伊東にはエレクトーンの先生は居らず、三島まで通いました。毎週木曜日夜、父が連れて行ってくれました。10歳下に妹がいたので。万難を排して環境を整えてくれた両親には、ほんとうに感謝です。

 

エレクトーンに出会ったお陰で、クラシック以外の音楽をたくさん知ることができたのは、ほんとうに大きなことでした!!コードネームを知り、自ずとセオリーも覚え、耳コピして、適当に伴奏付けしたり。これはピアノだけだったら出来なかったことですね。この頃から体もメキメキ丈夫になって行きました。

 

 

音大に行きたいなら作曲科にでも行きなさい!!

そんなわけで、中学時代は、週1回の三島でのレッスンに加え、月2回沼津へもレッスンに通い、コンクールに挑戦したりと、エレクトーン一色の毎日でした。レッスンに行くために月2回、学校を早退していたら、学校から注意を受けて、早退できなくなり、先生が家までいらしてくださることになるということに。何とも有難いことでした!!

 

ところが。ピアノの先生は、クラシック至上主義。エレクトーンを始めた私に「なにぃ?!エレクトーンなんか始めたの?!ジャズ?ポピュラー?そんな邪道なことやってたら、ピアノ科は無理ね!!音大に行きたいなら、作曲科にでも行きなさい!!」と非難され、先生のその一言で、私は作曲科を受験することになったのです。

今となっては、私を作曲科に導いて下さった有難いアドバイスでしたけど。

  

 

作曲科受験準備の高校時代

というわけで、高校入学と同時に受験準備開始!!作曲科を受けるには、和声・対位法を習得しなければなりません。受ける大学を武蔵野音大と決め(藝大という選択肢がなかったのは、ピアノの先生の指令で藝大の附属高校を受験させられて、その時の雰囲気が嫌でトラウマになっていたから。笑)、その大学の先生を紹介して頂いて、月2〜3回、日曜日はレッスンの日。朝早く家を出て、横浜でピアノのレッスン、東京で作曲と、時々エレクトーンのレッスン。地元の先生は、ピアノの下見とソルフェージュをみて下さいました。

 

ピアノも和声も宿題がたんまり出るので、学校から帰ったらピアノ。夕食後ピアノ。夜食後和声という日課で、徹夜も度々。学校へ行く時間になっても和声が仕上がらないと、学校は遅刻か欠席ということもしばしば。苦手な体育や面白くない家庭科の時間は、保健室で睡眠不足解消。授業中も和声の宿題をやるという、超問題児。まあ、よく卒業させてくれたものです。

 

東京に通っていたお陰で、伊東ではまだ手に入らなかったカップヌードルを買ってきたり(翌日、学校へ持って行ったら、みんなに味見されてなくなった!)、おしゃれなバレンタインチョコレートを買ってきたり、マックのハンバーガーを食べることができたり、、、今じゃ笑っちゃうようなことができたのは、ちょっと嬉しい思い出です。銀座のヤマハにもよく行きました。楽譜や五線紙が何でも揃っていてテンション上がりましたね。

 

私が和声が得意で、今、先生方にお教えできるのは、このとき徹底的に叩き込まれたからなんです!!

 

 

晴れて音大生!憧れの一人暮らし♡

1973年4月、音大生となり、1DKのマンションで一人暮らしが始まります。いや〜〜嬉かったです!!

 

作曲科の1年生は、5名(うち1名は2部(夜間))。私以外は全員浪人経験者。知識の量と深さが私とは全然違う!実力が違う!!いきなりパンチを食らったようでショックでした。ああ、勉強しなくちゃ!!と、無遅刻無欠席で(高校時代の反動か?)、何でも吸収しようと必死でした。

一番仲良しなったY(今でも一番の親友)は、生粋の江戸っ子。やることなすことスマートで、田舎の子の私は、驚きの連続(笑)。一緒にコンサートや歌舞伎、美術館に連れて行ってもらいました。

 

1年生の時、先輩に騙されて(笑)学園祭の実行委員にさせられてしまい『演奏係』を担当する羽目になったのですが、これは実に良い経験でした!何でもやってみるもんです。コンサートの企画制作のノウハウは、今に繋がってますし、あのときの仲間とは今も繋がってます。

 

そして、体育実習がきっかけで、スキーにハマり、以来『昼間スキー、夜ウィスキー』というツアーが続き、アホかと思うほど滑りましたよ。

 

自分で言うのもナンですが、勉強も遊びも、寝る間を惜しんで真面目にやってました。パワフルでエネルギッシュでしたねぇ。こんな生活は、大学院まで6年間続きました。

 

 

社会人1年目はプー太郎

大学院は修了したものの、院2の時の続きで、副科で取った打楽器の先生のリサイタルのために作品を書く約束があり、それに専念していたのです。それは、、、

 

院2の時、その打楽器の先生が「締め切りに間に合ったら、大学祭でオレが演奏してやる!」と、酔った弾みに言ったんですよ!それで、ものすごい勢いで書きまくり、約束の日に楽譜も全て仕上げて届けたんです。先生はどうせ間に合わないだろうとタカを括っていたので大慌て。でも約束だからね!

 

学生の分際で先生に初演させると言う前代未聞の『事件』でした!あの時の気分、それはそれは最高でしたね!!

そして翌年、先生はリサイタルでその作品を取り上げてくれたのです。

 

『ティンパニとオルガンと金管五重奏のための“KYO“』と言う作品でした。

 

それで、ホール取りから何から何まで、裏方のお手伝いして、本番では、オルガンを弾きました。この時のことは、私の人生の中で、輝く思い出の一つです。

 

 

そして音楽教室講師〜大学講師に

親のスネをかじるのもそろそろやめないと!と思い、故郷でヤマハ音楽教室の講師になりました。幼児のグループレッスンは初体験。音大では、幼児の指導法なんて、全く教えて貰ってないので、新講師の研修では出来ないことだらけ。それまでの世界とのギャップに右往左往しながらも、何とか勤めました。

 

子どもを教える事になるなんて夢にも思わなかった私ですが、子どもの可能性や面白さに開眼!これはやり甲斐のある仕事だ!!と思ったのも束の間、翌年から尚美学園に勤務する事になり、音楽教室は退職。

 

が、伊東の実家でもレッスンする事になり、この年から、月〜木は東京、週末は伊東という住所不定の生活が始まりました。

 

専門学校で1年、短大(当時は短大でした!)で3年、専任講師でしたが、その激務(人使い荒い!)に嫌気が差して、「もうやめてやる〜〜!」と学長に直談判。目出度く専任講師を降り、非常勤講師に変わりました。

  

 

結婚〜出産〜子育て〜教室再開

専任から非常勤に円満に切り替えられたのは、おそらく理由が「男と共同生活始めるから」だったからかな?

学長もそう言う理由じゃしょうがないと思ったんでしょうね。結局、その男と結婚したんですけどね(現在の夫です)。その時点では結婚したいとは思ってなかったんだな。それから、まさかの妊娠・出産。

 

出産後は、短大の授業2コマだけ残して、子育てに専念。実家でのレッスンは、娘を連れての毎週の移動は、娘に負担がかかるため、やめました。「住所不定」ではなくなり、公園とスーパーのトライアングルゾーンで過ごしました。

 

そして、娘が生まれたことで『金子みすゞ』の詩に出会い、曲を付ける活動が始まりました。左手に娘、右手に鉛筆で作曲して、今やみすゞの第一人者である、矢崎節夫氏が主催する童謡コンサートで発表するというささやかに活動してました。これがあったから、作曲という行為を忘れないでいられたかな?と、とてもありがたいことでした。人生何が幸いするかわかりませんね。

 

そして、娘が幼稚園に上がると、お友達がピアノ習いたいと言ってくれて、娘も一緒にレッスンが始まりました。

教室再開です!!ちょうど同じ頃、エレクトーンでオペラやコンチェルトの伴奏をやってみないか?と勧められて、演奏の仕事も再開しました。

 

この仕事と短大での授業の経験から、アンサンブルの重要さを痛感し、子どもたちにアンサンブルを!!と思いついたのが、エレクトーンのオーケストラ伴奏で、「コンチェルト仕立て」にしてアンサンブルを体験させること。こうして出来たのが、今の『エレピアコンチェルト』です。

 

発表会も1993年から再開して、1年半に一度のペースで『よしことおともだちジョイントコンサート』を行い、

生徒たち一人一人に『エレピアコンチェルト』を編曲していきました。 

 

 

音大講師・教室主宰・エレクトーン奏者・作編曲・母・主婦  そして癌との付き合い

一体何足の草鞋を履いていたことでしょう!!静岡の常葉学園短期大学にも行っていた時期もありました。

 

でも、私の中では全て繋がっていることなのです。オペラやコンチェルトの伴奏をしていたから、大学で教えていたから、子どものピアノ教育に何が必要か良くわかり、より良い指導方法を研究することができました。子育ても、とっても役立ちました。娘からアイデアを貰うこともよくありました。

 

それから1996年には『金子みすゞの詩による童謡集』のCDを作り、翌1997年『金子みすゞの世界』というコンサートも始めました。

 

そうそう、その秋に乳癌が見つかり、急遽手術。3年後に再び手術。通算10年間、癌と付き合いました。

でも「今どき、ガンで死んだりしないでしょっ!」と、相手にされなかった(?)癌は退散したようです。

 

そして、食べることだけは手抜きしなかった!!子どもは特に、毎日の食事は大切ですからね。お料理は好きなので、苦にならなかったけど、これはちょっと自慢できるかな?

この生活はずっと続くだろうと、身を任せて過ごしていました。ところが、、、

 

 

故郷でミュージカルを!再び住所不定に

2003年初夏、突然、伊東の旧知の仲の『姉御』から電話が! 伊東の歴史にまつわる史実を基にミュージカルを作って上演することになったので、作曲してちょうだい!!という指令でした。『姉御』の指令ではあるし、ミュージカルの作曲なんて、夢のような話!!2つ返事で引き受けました。上演は、翌年11月と決まっていました。

娘も高2になってましたから、私がいない日があっても何ら問題もない!ここからまた伊東へ通うことになったのでした。

 

2003年は、発表会を再開してから10年目。12月に10周年記念発表会を開催しました。レッスンを再開してから13年の時が経ち、生徒も大きくなってこの発表会で『卒業』という子もいて、生徒は激減しましたが、ミュージカルの活動が始まってましたから、神様は佳きに計らってくれた!!と思いました(これまた笑っちゃえるプラス思考!)そして教室は開店休業状態。

  

 

伊東での活動・両親の死・実家消失・『よしこを囲む会』・エレピアコンチェルト演奏会・股関節の故障

『伊東ミュージカル劇団』の座付作曲家(笑)となり、2004年『青い眼のサムライ』、2009年『ありがとう!北里先生〜伊東だけが知っている北里柴三郎物語』、2012年『伊東祐親物語』を作曲。演奏はエレクトーンを使い、当然のことながら私が担当しました。上演するたびに改定しながら、活動は10年続きました。全て伊東の史実によるものです。

 

そして、せっかく伊東へ来るんだからピアノも教えたら?!という周りの勧めで、再び伊東で教え始めました。グランドピアノは実家に置きっぱなしだったのです。しかもとっても広い部屋。

 

両親は、私の伊東での活動と私が頻繁に帰ってくることをとっても喜んでくれて、応援してくれました。チケットをたくさん捌いてくれたり、寄付金を集めてくれたり。本当に有難いことでした!!それは両親にとっては、やることが増えて大変なことだったと思うのですが、それより私が活躍している喜びの方が大きかったのですね。

 

私は、親孝行できたのです!!(またまた能天気なプラス思考!)

 

東京と伊東を往き来する楽しい生活でしたが、2006年秋ころから、股関節の痛みを発症し、『変形性股関節症』と診断され、徐々に悪化し、ついに人工関節置換手術となりました。長期間入院できるのは、大学の授業のない春休み。2014年2015年の2〜3月は、病院で過ごしました。これは極楽でしたね。日がな、オペラ、ミュージカル、バレエのDVDを観まくりました!ナースステーション気付で、100枚近いDVDを送る患者なんて前代未聞だったんだろうなぁ。

 

2008年3月に母が突然逝き、2010年11月には父も逝ってしまいました。2人とも、そこそこいい歳でしたから、仕方のないことです。両親の晩年に、毎日ではないにしろ頻繁に一緒にいられたことは、本当に有難いことでした。ミュージカルがなかったら、こうは出来なかっただろうと思います。やっぱり神様は、佳きに計らってくれたんですよね!

 

奇しくも母が亡くなった1ヶ月後、『よしこを囲む会』が発足しました。

これは地元・江古田で近隣の皆さんに音楽を楽しんで頂こうという趣旨で、かつてのPTAの仲間がスタッフになってくれて、年1〜2回、江古田にあるギャラリーや珈琲店で『よしこのミュージックパーティー』を開催し、毎回様々なゲストとコラボして、エレクトーンの面白さや金子みすゞの心を伝えておりました。これは2019年まで続きました。

 

そしてそして、生徒のために編曲してきた『エレピアコンチェルト』は、50曲を超えました。これは、是非ともたくさんの子どもたちに体験して欲しいと思い、まずはピアノの先生に知っていただくために、2015年より『エレピアコンチェルト体験会』を始め、翌年から参加者を募集して行う『エレピアコンチェルト演奏会』も始めました。今、コロナ禍で休止してますが、コロナが収まったら再開したいと思っています。

 

父亡き後、実家は売却されることになりました。兄は遠く離れたところで開業していましたから、実家を継ぐ者がいなかったわけです。私が相続するにはとても手に負えない物件でしたから、仕方ありません。

グランドピアノは手放し、夥しい量の物を全て、使ってくださる方に差し上げて(というより、貰って頂いて)、東日本大震災直後の3月末日に明け渡しました。

 

それから2014年3月まで、お友達がレッスン室を貸して下さって、週末は旅館に泊まって、レッスンとミュージカルの稽古という日々が続きましたが、ミュージカル劇団も発足から10年の時を経て、私が稽古に通わなくても大丈夫な状態になったため、レッスンも終了しました。

 

  

ようやく定住 『よしこの音楽室』再開

思えば、社会人となってからは10年ごとに転機があったように思えます。何やってたんだろう・・・とも思えたり、よくやってきたよね!とも思えたりです。

今、娘も三十路となり、立派に独り立ちしてますので、何の心配もありません。

 

2019年度で、40年間務めた大学講師を退職し、ようやく自宅の教室のみで、じっくり指導に打ち込むことができるようになりました。

ちょうどコロナが蔓延し始めた昨年(2020年)2月上旬で、大学は実質的に終了しましたから、朝のラッシュの電車に乗ることもなくなり、本当にラッキーでした。やっぱり私は、神様に守られている!!

 

これからの残りの人生は、誰かのお役に立つようにいきていかなければ!いけませんね。

 

子どもたちには、『一生ものの音楽力』と『生きる力』を培い、心を育む。大人の皆さんには、生き甲斐や気分転換、ストレス解消になるように音楽の楽しさ素晴らしさを伝えていく。そして、指導者の皆さんには、和声をしっかり学び直して、子どもたちに、より幅広く深い音楽の楽しみを伝えて欲しい!!と。

 

そしたら、音楽を愛する人が増え、幸せな人が増えるだろうな〜と、夢見ています。

これからも神様に守ってもらえるように精進していこうと思います。

 

   

よしこのベースは、やっぱり幼い日の体験で出来上がった

私は、ピアノよりも何よりも長く親しんでいることがあります。それは、お茶(茶道)。

 

祖母のペット(笑)だった私は、物心ついた頃から、よくお茶会に連れて行かれました。正式にお稽古を始めたのは、小4の時でしたが、祖母から折に触れ教えられていました。そして、大学生の時、最後のお免状を頂き『恭敬庵 西山宗淑』という号も頂いて、看板も持っているんですよ。流派は「江戸千家」

 

そして、中・高生時代は、お煎茶とお花のお稽古にも通ってました。持ち帰ったお花を待合室(歯科医院の)に飾るのは、私の役目でした。

一服のお茶を差し上げるために、お掃除に始まり、道具を整え、懐石を準備して一期一会の時間を共有する。お客様に心地よく過ごしていただくために最善を尽くす。それは正に日常茶飯事なわけです。そのことが本当に体に染み付いているような気がします。

 

私が料理が好きなのも、誰かを呼んで宴会(つまりお酒を飲むこと)するのが好きなのも、着物が好きなのも、焼き物や塗り物(工芸品)が好きなのも、歌舞伎が好きなのも、季節の行事が好きなのも、すべてお茶がベースになっていると、今更ながら思います。

高校生の時、お茶のお免状式で頂いた、お懐石のみそ汁の美味しさは、衝撃だった!今でも思い出せるそういう記憶は、人生を大きく変えますね。

 

子どもたちにも、ぜひ茶道体験をさせてあげたいと思ってます。コロナが収まったらぜひとも実現したいです!!

 

  

 

 

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